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渡辺美佐子さんと「原爆朗読劇」

古藤黎子


渡辺美佐子さんは、私が中高に在学していた当時から、既に日本を代表する有名な映画人であり、演劇人だった。
その頃、渡辺さんは、実践の学祖、下田歌子の故郷、岐阜県恵那市の岩村城址の女城主を務めていて、我々には相変わらず遠い存在の方だった。
中高の卒業生の会は、影が薄い存在だったが、渡辺さんに朗読会をお願いした頃から、多くの同窓生が参加してくれるようになった。渡辺さんが、向田邦子さんやご友人の佐藤愛子さんの作品を朗読してくださっていたからだろう。
その朗読会を始めて数年後。
渡辺さんが「今度の朗読会で一枚の写真を使用する」とのこと。アメリカ人の軍人として長崎に来て、戦後写真集を出したジョー・オダネル氏の写真集の中に掲載されている「火葬場に佇む少年」の写真である。既にその時、渡辺さんは写真の使用許可を、オダネル夫人から取得されていた。偶然にもその写真集の出版元は、私が在社していた出版社だった。
その時の朗読会は、私たちの初めての「夏の雲は忘れない」であった。
渡辺さんたちの朗読劇「夏の雲は忘れない」は、広島・長崎の原爆投下をテーマにしている。原爆で親を亡くした子供たちの体験や、終戦当時の人々の思いなどが描かれている。
渡辺さんが、どうして「夏の雲は忘れない」の公演に30数年間も関わっていらしたかは、次のような事があったからかもしれない。

1980年、「小川宏ショー」というテレビ番組のご対面コーナーのゲストとして、渡辺さんは出演された。事前に、ディレクターから「もう一度、会いたい方は?」と聞かれ、小学校で急に転校していなくなってしまった男の子の名前を告げた。
渡辺さんは、小学生の頃、麻布のお住まいから笄国民学校(現港区立笄小学校)に通っていた。戦況も逼迫する中、一人の男の子が転校してきた。水永龍雄(みずながたつお)君という名前だった。カーキー色の国民服姿で、真っ赤なほっぺにぱっちりした目の可愛らしい男の子。学校の行き帰りに、まるで渡辺さんを待ち伏せするかのように、道で花をつんだりしていた。
その頃は、男の子と会話などすることがなかった時代。渡辺さんは、その男の子の声も思い出せないという。
番組の本番、出てこられたのはもっとお年を召されたご夫婦で、渡辺さんは直感的に龍雄君のご両親だと分かった。
龍雄君一家は戦前満州で暮らしていたが、両親は龍雄君を内地で学ばせたいと、小学生の龍雄君を東京へと送った。しかし、戦況は悪化し、龍雄君は祖母を頼って東京から疎開。その疎開先が広島だった。
1945年8月6日、中学一年生の龍雄君は、同級生たちと朝から建物疎開に動員されていた。彼らがいたのは、原爆の爆心地だった。龍雄君は、遺体はおろか、遺品も最後をみとった目撃者もいなかったという。
ご両親は初めて会った渡辺さんに『35年も経つというのに、お墓も作ってやれないのです』と涙を流された。広島で約14万、長崎で約7万4000人もの人の命を奪った原爆の悲惨さ、恐ろしさを、渡辺さんは知っているつもりだった。しかし、龍雄君が犠牲者の一人だったということで、本当は立っていられないほどのショックを受けた。にもかかわらずそんな安っぽいことじゃない、もっと重たい事なのだと涙を必死にこらえたという。
それから5年を経た85年、渡辺さんら平和を願う女優たちの、夏の風物詩となる朗読劇が幕を開けた。
35年前、朗読劇を始めるにあたって、演出家の木村光一さんから送られてきた多くの資料の中の一冊『いしぶみ』(ポプラ社)に『広島二中一年生 全滅の記録』があった。龍雄君が疎開して通っていた学校だった。巻末には、あの日、原爆で亡くなった322人全員の名前が載っていて、そこに水永龍雄君の名前があった。たった12歳で逝ってしまった・・・龍雄君だけではない多くの子供たちが一瞬の間にいなくなって。

「12歳で命を奪われた彼の存在が、私が35年間、舞台に立ち続けることができたのだと。そんな馬鹿なことがあってはいけないという怒りが、ここまで続けさせてくれたのでしょう。若い人達に何があったかを伝えるのが、戦争を知る私たちの務めだと思います」
渡辺美佐子さん談